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鶴亀

Tsurukame

嘉永四年(1851)十二月 作曲:十代目 杵屋六左衛門


” 亀は万年の齢を経 ──

 ─ 鶴も千代をや重ぬらん ”



歌詞

〈本調子〉  それ青陽の春になれば 四季の節会の事始め  不老門にて日月の 光を君の叡覧にて  百官卿相袖を連ぬ その数一億百余人 拝をすすむる 万戸の声  一同に 拝するその音は 天に響きておびただし  庭の砂(いさご)は金銀の 玉を連ねて敷妙の 五百重(いほへ)の錦や瑠璃の扉  硨磲(しゃこ)の行桁(ゆきげた) 瑪瑙の橋 池の汀(みぎは)の鶴亀は  蓬莱山も余所ならず 君の恵みぞ ありがたき  如何に奏聞申すべき事の候  奏聞とは何事ぞ  毎年の嘉例の如く 鶴亀を舞はせられ  その後月宮殿にて舞楽を 奏せらりょうずるにて候  ともかくもはからひ候へ 亀は万年の齢を経 鶴も千代をや重ぬらん

〈二上り〉  千代のためしの数々に 何をひかまし姫小松  齢に比ふ丹頂の 鶴も羽袖をたをやかに  千代をかさねて舞遊ぶ みぎりにしげる呉竹の  みどりの亀の 幾万代も池水に 棲めるも安き君が代を  仰ぎ奏でて鶴と亀 齢を授け奉れば 君も御感の余りにや 舞楽を奏して舞ひたまふ

〈本調子〉[楽の合方] 月宮殿の白衣のたもと 月宮殿の白衣の袂  色々妙なる花の袖 秋は時雨の紅葉の羽袖  冬は冴え行く雪の袂を 翻す衣も薄紫の 雲の上人の舞楽の声々に  霓裳羽衣の曲をなせば 山河草木国土豊かに  千代万代と舞ひたまへば 官人駕輿丁(かよちょう)御輿を早め  君の齢も長生殿に 君の齢も長生殿に 還御なるこそめでたけれ


解説

嘉永4年(1851)10世杵屋六左衛門による作曲で、「秋の色種」などと同じ、南部候の麻布御殿(今の広尾です)で作曲されたといわれています。

作詞は長唄のスポンサーでもあったあの南部候の28歳の若隠居といわれていますが、彼は大の能好きで、二上がりの部分を除き観世流の謡曲からのコピーです。 また、六左衛門が喜多流家元と懇意であったことも、この作曲に関係しているのでしょう。

謡曲の鶴亀は、脇能といわれるもので、お祝いの時などによく謡われます。 これは、中国つまり、唐土での新春の節会の「事はじめ」を述べたもので、帝はまず不老門にて諸侯の拝賀を受けた後に鶴亀の舞を見ます。 その後、感動して月宮殿にて自ら舞を奏した後に長生殿へ戻られるというストーリーです。

全体として、潤いのある中に荘重な気分の出る曲だといえます。曲中には難しい言葉が沢山並んでいますが、例えば「しゃっこのゆきげた」というのは貝のシャコでできた豪華絢爛な橋桁のことです。

「千代のためし~」は鶴の舞、楽の合方は王の舞、二上がり以下は荘重な雰囲気で終わる構成となっています。 「奏聞とは何事ぞ~」という部分は、謡曲にはなく、長唄としてこれを挿入したものです。 「白衣のたもと」という部分ですが、月宮殿には白衣の天人が15人、黒衣の天人が15人、合わせて30人が常駐しており、このうちの15人が舞うそうですが、この配分により月の満ち欠けを決めたというものです。 ですから15人全員が白衣の天人の場合は満月の日ということになります。

かつて、謡曲は格式を重んじた武士の式楽といわれ、長唄は自分たちのことを遠慮してこれと距離を置き、歌詞をそのまま取り入れることを避けていましたが、ここではそのまま借用していますから、これも時代の大きな変化だといえましょう。


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