Nankou
明治三十五年(1902) 作詞:榎本虎彦 作曲:十三代目 杵屋六左衛門
” 見送る父は鎧の袖に ─
─ 伝ふ涙やほととぎす ”
歌詞
〈二上り〉
一張の弓の勢は 月心にあたり 三尺の剣の光は 露腰にあり
頃は皐月の末つ方 楠判官正成は 君の仰を蒙りて 一族郎党五百余騎
今日を最後と九重の 都を後に手束弓 駒をば暫し桜井の 宿に止めて
〈本調子〉
青葉蔭 嫡子帯刀正行を 近く召して申しけるは
如何に正行聞き候へ 獅子は我児を千仭の谷へ 落して気合を見るとかや
況して汝は十一才 父が教を忘れなよ そもそも今度の合戦は 天下分目の晴軍 父は兵庫に討死と
心を決して候ふぞ 汝はこれより故郷へ 疾々帰れと促せば
正行涙せきあえず いかで是より帰るべき 抂げても伴い候へや
正成心を励まして 聞分の無き我子かな 我亡き後は将軍の 天下となりて日月は 光を失ひ申すべし
汝一旦の身命を助からんとて 敵に降り候ひそ 生き残りたる郎党を 扶持して再び旗を挙げ
叡慮を安じたてまつれ これ第一の孝行と 形見に与ふ恩腸の刀
正行これを押戴き 泣く泣く帰る後影 見送る父は鎧の袖に 伝ふ涙やほととぎす
声を残して西東 別れてこそは下りけれ
[大薩摩] さる程に 淡路の瀬戸や鳴門の澳 霞の晴間を見渡せば 数万の兵船漕ぎつらね 帆影に見ゆる山も無し 陸は播磨路須磨の浦 鵯越の方よりも 二つ引両四つ目結 輪違の旗翻飜と 磯山風に吹き靡かし 雲霞の如く寄せかけたる 敵を前に正成は 湊川にぞ陣を取る 敵と味方の閧の声 箙の音におどろきて 沖の鴎のちりちりぱっと 海陸一度に震動し 射出す征矢は秋の木の葉 打合ふ太刀は電光石火 群松風の樹がくれに 菊水の旗ひるがえし 楠判官正成と 名乗って戦ふ決死の勇将 五十万騎の真中へ 駈け入り駈け入り 三時に亘る合戦に 人馬の息を休めけり かかる所へ左馬頭 新手を代へて立ち向かふ 正成兄弟物ともせず 或は引組み 或は蹴散らし 一歩も退かず戦ひしは 実に忠臣の鑑ぞと 美名を末世に残しけり
解説
この曲の題名「楠公」とは歴史上の人物、楠正成のことです。作曲は13世杵屋六左衛門です。この曲が作られたのは今から100年ちょっと前の明治35年(1902)ですから、そんなに古い曲ではありません。
合戦もののこの曲がこの時代に作られた背景には、やはり時代の要請といいますか、長唄にも遊里を扱うものが少なくなり、淡白な男女の描写であるとか、お堅い軍記物、戦記物が流行ったためでした。
時は南北朝時代といいますから、今から700年も前の南北朝の時こと。
南朝のボスである後醍醐天皇のシンパであった正成は、京都に攻め込んだ足利尊氏を一度は九州に追いやったのでしたが、北朝の光厳上皇からの院宣(いんせん)を受けた尊氏が、大軍を率いて海と陸に分かれて京都に向け進撃します。
正成のわずかの勢力が今の兵庫県の湊川でこれを迎え撃つことになりました。
この曲は、「上の巻」が11歳の我が子正行との別離を述べた「桜井別れの段」、「下の巻」が「湊川合戦」の二部構成です。
何せ11歳の我が子を諭すわけですから、当時は多くの人の涙を誘うことになります。
「青葉茂げれる、桜井の~」で始まる小学校唱歌は、戦前にお生まれの方ならば音楽の時間や修身の時間で習わされたことでしょう。
極めて明解な軍記ものですので、浄瑠璃調で大薩摩という形をとっています。
後段の「将軍天下取りて」とあるのは尊氏のことであり、「左馬頭」(さめのかみ)とあるのは尊氏の弟の正義のことで将軍の後見役のことです。
正成兄弟は後醍醐天皇にぞっこんほれ込んで「七生報国」つまり七回生き返って国のために尽くすという誓いをかわし、差し違えます。
合戦の際に天皇から菊の御紋章を賜るのですが、これではあまりにも勿体ないということで、菊の図柄の上半分と下半分に水の神様の水の流れを配した「菊水」という、今でいうブランドを立ち上げたということになっています。後半で「菊水の旗を翻し」とあるのがそれです。
この曲が完成した時には、長唄らしくないとあまり評判が良くなかったのですが、六左衛門さんの方では、新曲の中では新曲浦島、多摩川とともに人気のある曲だといわれています。 ストーリーとしては大変堅い感じですが、歌、三味線ともに技巧を要する曲といえます。
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